アテネの聖バレンタイン
発見者はデミィトリス・パパダキス
ここに小さな一冊の本があります。著者はディミトリス・パパダキス・ペラトラキスという人です。彼はクレタ島のローカルニュース番組のジャーナリストですは彼がギリシャの国民として残った民族の歴史を調査中に聖バレンタインの遺骨と遭遇しました。これは奇跡的な出会いです。
1994年に彼はギリシャ人となって暮す民族の調査をしていたことから始まりました。
イタリア系ギリシャ人の歴史を追っているときに聖ンフランシスコ&クララ教会に来ました。
その祭壇下にあったガラスケースの中の遺骨が聖バレンタインであると知り、その証拠調べをしました。
イタリア人のウルバノ神父が協力して、書類等を見せてくれたそうです。
これ以外の本物はありえないという確信を持ちました。
(本の表紙にイコン画はビザンチン帝国時代にクレタの無名の画家によって描かれたものです。この肖像が一番古いものです。)
1995年にギリシャ国内ニュースとなりましたが、この教会を訪れる人は少ないです。
理由は普段この教会が閉鎖されていること、そしてギリシャ人はギリシャ正教徒であることがあります。
アテネ路上の花屋さん

やはり民族を越えて尊敬を集める聖バレンタインは生前、花を育てるのが好きだったので、ギリシャではチョコレートではなく花束が主流です。
この日どこかのお宅に訪問予定の人はお菓子以外に花束を持っていきます。バラでなく水仙も素敵ですね。
義理チョコではなく義理花束です。
あなたが男でギリシャ人の彼女がいたら、花束をプレゼントしましょう。
もし忘れたらギリシャ人の彼女はこう言うでしょう!
「アンタ、花はどうしたの?何やってんのよっ!」
この日、誰かの家を訪問する予定のある人や用事が会ってよらなければならないときに、花を何気なく「はいどうぞ」とプレゼントする日です。
聖バレンタイン
日本語で聖バレンタイン 英語でセント・ヴァレンタイン イタリア語でサン・ヴァレンチノ ギリシャ語でアイオス・ヴァレンチノス。
ヴァレンタインの意味はラテン語で「強い」「動かない」です。
彼の命日(268年2月14日)は今やロマンチックな日に代わりました。
しかし彼はたくさんの拷問された末に殉教したのです。
生前の彼のエピソードにがあります。
バレンタインがバラ園の手入れをしていると、近くに夫婦喧嘩をしている男女の声が聞こえました。彼は自分の育てた花をその夫婦にあげようと思いました。バレンタインは温かく微笑ながら、花をもって近づいて行きました。バレンタインと言葉を交わした夫婦はいつのまにか男女の純粋な気持ちを取り戻したのでした。
聖バレンタインの遺骨はローマの枢機卿お墨付き

1815年9月22日ローマ・カタコンペの地下墓地で発見されました。
地下墓地の管理人ピエトロ・コンビは墓標に消えかかっているバレンタインの文字を発見したことを報告しました。
そのときのローマ法王ピオス7世の考えに沿って、枢機卿のジュリアス・デ・ソマリアは、聖バレンタインの亡骸の手続きを行います。
まずカタコンベの地下墓地の棺から遺体を出して、骨を箱に納め、血を瓶に納めます。
これをスペインのセビリア地方のイスラリにの王立大聖堂の礼拝堂に奉仕する敬虔なる聖職者ジャンニバプティス・ロンガリーニ・デ・S・コンスタンツォ神父に渡したのです。
ちなみに、この神父はの一族は裕福な商人の一族でした。
上の写真は枢機卿が書いた遺骨の証明書です。枢機卿(カーディナル)とは法王(ポープ)の次に位置する人です。
聖バレンタインの証明
お墨付きが付いているのが、決定的な証明です。また私はイタリア大使館に勤務していた外交官から10年前にその話を聞きました。彼が言うには、本当だとわかったので、教会を工費で修復したと言うのでした。
それでもそれがなぜ真実いえるのでしょうか?
18人の聖バレンタインを調査(写真無断使用禁止)

18人の聖バレンタインと呼ばれる人が存在しました。彼らは権力者と対立して殉教しました。
絞首刑になった人もいれば、ライオンや虎に食べられた人もいます。
キリスト教が布教されるまではローマは結構残酷趣味があったのでしょうかねぇ。
だいたいギリシャでは古代劇場ではお芝居があったわけですが、ローマ人はその劇場を人間同士の殺し合い見物や人がライオンに食べられるのを見て楽しんだようです。
あのぅギリシャ人がかつて古代悲劇とか音楽を楽しんだところが、ローマ人によってそのようなことに使われたときも一時期あったようです。
その後キリスト教がヨーロッパはギリシャから始まりました。最初の新約聖書はギリシャ語で書かれていました。
まぁいろいろあって、東西にローマが分裂し、東はギリシャ正教、西はカトリックになりました。
分裂前のローマ帝国は軍事力が一流だったので、ギリシャを支配下に置きました。そして文化学術一流の国だったギリシャからたくさんの学門の指導者としてローマに連れて行きました。
キリスト教がギリシャ正教とカトリックに分裂しない前は、キリスト教の総主教庁は4つ存在していました。エルサレム、コンスタンチノポリ(イスタンブールはこだいギリシャ語to the cityの意味)、アレクサンドリア、ローマ。
ローマは東西の分裂と共にローマン・カトリックとなって行きます。その後ローマン・カトリックは世界中に勢力をもって行くことになります。
しかし18人のバレンタインはまぎれもなくヨーロッパ人でした。
しかしローマ人とは限りません。
キリスト教公認以前のローマ帝国にギリシャから学者をたくさん連れて行かれました。
またたくさんの外国人が暮していました。
聖バレンタインがそのギリシャ人のである可能性もあるのです。
当時ローマに移り住んだギリシャ人の仕事が学者でした。
のちにキリスト教が公認になるとギリシャ移民の中からも、聖職者になった人々もたくさんいるのです。
バレンチノという名前はローマ人の名前でしたが、響きがかわいらしくやわらかいので、民族を越えて、この名前は使用されました。意味はラテン語で、強い、動かない、です。
ローマにいた2人の聖バレンタイン
さてこの18人のバレンタインの中で、ローマに住んでいたのは2人に絞られます。
1人はローマから60キロメートルのテルニという都市の司教をしていました。だから消去法でいくとあの聖バレンタインデーのバレンタインではないのです。
もうひとりのアテネの聖バレンタインこそがローマにいたあのバレンタインなのです。
ローマのカタコンベの墓地に埋葬されて忘れられていた聖バレンタイン
彼は皇帝に就任前のクラウディオス2世ゴティクスのお気に入りの神父でしたが、ローマ元老院に大変嫌われてしまいました。
この時代は軍人皇帝時代でした。古代ローマは軍事国家覇権主義です。そのいきさつは皆さんご存知なので省略します。
268年2月14日に死刑判決が出て殉教しました。そしてローマのカタコンベ(地下の共同墓地)に埋葬されたのでした。
カタコンベの地下共同墓地はいつも込み合っていました。
当時の埋葬法は、埋葬して数年したら、家族のものは掘り上げて骨を抜いて箱におさめことになっています。
聖バレンタインはカタコンベの墓地に埋められたまま、忘れられてしまいます。
なぜ忘れられたかというと、何しろローマは大都市でしたから、墓地は込み合っていたのです。
またローマに侵入してくるゴート族な土が頻繁にあった時代です。
それから彼はローマ政権にとっては反逆者でしたから、死んですぐには聖***にはなりません。
その時代の人は遺体をカタコンベに埋めて、数年してから、掘り起こしました。遺体から骨を抜いて小さな箱に納めることになっていました。
1815年に聖バレンタインの墓地の管理をしていたピエトロ・コンビによって発見されるまで、そこに眠っていました。
この内容はlemonodasosの調査で明らかにしました。よって写真と文章のコピー禁止ですのでご了解ください。
今はアテネの聖フランチェスコクララ教会に眠っています。続きを読んでね!