古代セリヌースのローマ時代の公衆浴場 |
Σκόπελος - Αρχαία Σελινούς - Ρωμαϊκά Λουτρά
Skopelos - Ancient Selinous - Roman Baths
古代セリヌースのローマ時代の公衆浴場遺跡がある。その公衆浴場の建築物はほぼ海に流されてしまったが、張り付くように、まだ少し残っているのだ。
海岸に張り付いた建築物を見ながら歩いた。左の壁にローマ時代の壁、右が海。
海岸の赤土の下に床が残っていて、サーモンピンク色の自然石が張られている。
近くで見るとその床はだんだん細切れになってなくなりそうだ。
少し離れた海側に床の断片がある。
古代ローマ公衆浴場の壁をずっと見ていく。
壁のところに円形の赤いテラコッタの板がある。これで床を上げて、その上が暖房されている部屋だったり、風呂だったりしたようだ。
さらに海岸に残る壁を見ながら歩く。
壁の中に残る不思議な凹みというか穴がある。
その凹みというか穴を大写しにするとこのような感じ。
さらに先へ行くとこのような凹みがる。
この凹みというか穴は風呂の湯を沸かすかまどだったところだろうか、黒く焦げたところが残っていた。
さて見学は終わり、元来た道を帰るのだが、遠くに古代セリヌースのアクロポリスが見えた。
スコペロス島の島民の遺跡に関する情熱が乏しい。
スコペロス島は先史時代、古代ギリシャ、ローマ、ビザンティン時代と非常に住みやすく暮らしやすかった。教会などには金銀や寄付金などがあり、ほかに裕福な商人、農民が暮らしていた。
そこへ1538年ハイレッディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa *1475–1546)というオスマン帝国の提督が上陸して島の北から南での住民を、虐殺強姦、各家の隅々に入り込み、高価なものを略奪をした。そして1830年までスコペロス島はほぼ無人島だった。生き残った者は奴隷化したというが、それなら無人島ではなかったはず。その後対岸のヴォロスや近隣の島々から移り住んできたギリシャ人が現在の住民ということになる。
ハイレッディン・バルバロッサ という人物はレスボス島で生まれ、父はヤークープ・アーガーというトルコの軍人で、母はギリシャ正教徒のエカテリーナと言う。この女性は寡婦だったというが、彼女の前夫は殺されたのかもしれない。彼はイスラム教徒ではあったがが、その当時の地中海世界では彼より残酷な人はいなかった。彼の母ギリシャ系だったので髪や髭が赤かったのでバルバロッサと呼ばれた。多くのエーゲ海の島々に海賊的手法で上陸し、略奪虐殺というのは、ギリシャだけではなく、北アフリカでも同様に行い、その名前は地中海沿岸に住んでいた民族たちを震撼させた。このような手法でエーゲ海の島々を従えて、巨大帝国の基盤を作ったのだった。
以上のことからスコペロス島の人々は、遺跡の場所とか、古い教会の場所とか、そういうものを大切にしないのかもしれない、、、などと言ったら怒られるかもしれないが、なんとなくそのような気がした。島民がみな虐殺というのは、海賊ダニエルというのが、エーゲ海のパロス島の近くのストロンギリ島で行った。まったく島に住む人は今も昔も要注意である。そのようなことがあるわけがない!というのは、あってからの後の祭りになるかもしれない。