エクソンヴルゴ Εξώμβουργο Exomvourgo
ティノス島の高さ640メートルのエクソンヴルゴという岩山があります。ここは島全体そしてそれを囲む海を見渡せます。そして古代から中世までティノス島の首都として栄えました。この頂上には先史時代から人が住んでいたようです。遺跡として古代(幾何学時代から)、ビザンティン時代、中世(ヴェネチア)とトルコ時代のものが残っています、、、といってもずっと城塞というのは石でできていますから、先代の廃物利用です。まぁ、時代が新しくなると城壁の石が細かくなっていきますね。おそらく古代は大石で荘厳華麗だったと思いますよ。
城塞は岩山の上の方に冠をかぶったように張り巡らされています。古代のアクロポリスの場所にビザンティンからヴェネチアに移るまで、城塞内とその外は人々はが住み、首都化していました。トルコ軍の侵入によって、ヴェネチア人は敗北しました。トルコ軍は3日間で、城塞内の建物、城塞外の建物は破壊して、その後はティノス島の首都は海岸沿いのホラの町に移り、現在に至ります。この島はローマンカトリックの人々が半数を占めています。
ビザンティン帝国崩壊後、1204年にヴェネチア人のジェレミエ・ギシ(Jeremie Ghisi)とアンドレ・ギシ(Andre Ghisi)の兄弟がティノス島にやってきて、島住民の安全と海賊から略奪の阻止をすることを約束しました。1207年から1390年までの183年間ギシ一族によって島は統治されました。この島はフランク族やトルコ軍によって攻撃を受けていました。中世は地中海貿易が盛んだったので、それぞれの勢力が貿易の中継地が必要でした。
ギシ兄弟は城塞の頂上にあったビザンティン時代のアギア・エレ二礼拝堂と呼ばれるた建物を修復し、ヴェネチアの言葉でサンタ・エレナと呼び、この城塞は「ヴェネチア人のサンタエレナ城塞」と呼ばれてました。この島にはギリシャ正教とカソリックの教会が混在しはじめましたが、もめた、という話はありません。ここに多くのヴェネチア人が住みました。
しかしギシ一族の統治はバルソロメオ3世の死によって終焉します。その後ヴェネチア国の直接統治になり、1430年になるとヴェネチアの将校によって島は支配されました。ティノス島とミコノス島を任されたヴェネチア軍将校のトップは、「ティノスとミコノスの学長(知事)」というタイトルを持つ人物でした。その名前は具体的な資料が手元にないのでわかりません。この城壁の中にはに677の家と5つの教会と貯水池があり1000人から2000人の人々が住んでいました。
1537年になるとトルコ帝国のスルタンに命を受けたバルバロッサによって数か月この城塞の町は占領されてましたが、そのヴェネチア軍の奪還が行われました。トルコ軍とヴェネチア軍の攻防が続き、占領されては奪還という事態が続きました。
そして1715年6月にカヌン・パシャ率いるトルコ軍8000人が上陸し、このヴェネチアの城塞は占領され、ヴェネチア人住民は殺戮され、3日日間で城塞内は大砲によってことごとく破壊されしまったのでした。このたった3日間のトルコ軍の狂気のような殺戮と破壊の前に、ヴェネチア軍トップのベルナルド・バルビは驚愕し敗走してしまいました。ヴェネチアにおいてこの将校は終身刑となりました。そしてこの島に残った人々は、ほぼギリシャ人、少数ヴェネチア人、さらに少数の支配者であるトルコ人だけになりました。しかしながらヴェネチアの奪還の機会を模索していたので、ずっとトルコでもずっとヴェネチアでもなく、安定したと言うわけでもなく、なんかもうトルコVSヴェネチアはティノス島以外でもありまして、島の一般ギリシャ人はそのまま農業とかやって、外国人が出たり入ったりしていたわけです。
エクソンヴルゴは古代から18世紀初頭までティノス島の首都でしたが、その後ヴェネチア人がサン・ニコロと呼んでいた海岸の町に移りました。そこは現在ギリシャ人にティノス市、或いはホラと呼ばれています。
エクソンヴルゴの頂上は古代アクロポリスのあった場所で、中世になっても島の首都として繁栄しました。
エクソンヴルゴの裾野には大小さまざまなギリシャ正教の教会があります。まるでこの地に住んでいた中世の人々の心を慰めるような雰囲気がありました。
さらに行くとただの岩山のようです。古代や中世の人々はいったいどうやってこの頂上にのぼったのかわかりません。近くに看板はあって、ロッククライミングのメッカになっているようですけど、、。下の写真の裾野に古代遺跡がありました。ギリシャ幾何学時代からのもののようです。さて方角どっちなのかわからなくなってしまいましたが、このエクソンヴルゴ山の反対側に行ってみました。山の右側の白い建物はサンタ・マルガリータ教会で、そこに修道院もありました。イタリア語を話す観光客がたくさんいました。この教会および修道院はこの地に残ったヴェネチア人の末裔の心のよりどころだったかもしれません。ギリシャ人でカソリックに改宗した人たちもいるのでしょう。
古代なのか中世なのかわかりませんが、貯水槽を見つけました。
サンタ・マルガリータ教会と修道院のある建物がエクソンヴルゴの反対側の裾野にあり、
ここからならば古代のアクロポリスで中世の城塞のある頂上に行けそうです。
エクソンヴルゴの中腹から見える廃墟は大砲で破壊されたものでしょうかね、、。
エクソンヴルゴ山の中腹にあった小教会です。脇の道を行くと古代エクソンヴルゴの遺跡があります。
まぁ、石がごろごろあって、建築物の基礎部分しか残っていないので、古代なのか、中世なのか、わかりません。
エクソンヴルゴの頂上にキリスト
アクロポリスというか中性の城塞の中へは行きませんでした。しかし裾野にある古代遺跡は見学してきました。
やれやれ岩山の上に町があったなんてねえ、、行かなくては行けなかったのにねえ、、。でも何もないと思いました。たぶん中世の建物遺跡があるとは思うけど、、。いやはなんと言いましょうか、古代遺跡の廃物利用に廃物利用して、破壊された遺跡を見るのは、古代人の心情を持つわたくしとしては、つらいものがあるんですわ。
いろいろな時代があって、いろいろな人々が生まれては消え、なんかさびしい感じがしますねぇ。エーゲ海沿岸の夏季に吹くメルテミ(μελτέμι)という強い北風がビュービューでした。メルテミは古代から現代まで、変わることなく吹き続ける季節風で、なんか寒いけど、会えてよかった!という懐かしい気持ちになりました。