ザロンゴのダンス |
この地は現在プレヴェザ県ザロンゴ共同自治体の地区内にあります。
そこには1803年にザロンゴの岩山の踊っているスーリ人の女性たちの記念碑があります。
その記念碑はの下にはアイア・ディミトリオス修道院があります。
ローマ時代、ビザンティン時代、そして中世、
イピロス地方はトルコ、ブルガリアの侵入があり、激動の時代になります。
イピロス地方のスーリという地域に住む男たちは、武勇にたけ、
まるでイピロスのラストサムライ的な集団でした。
スーリ人、スーリ族という名で歴史に残した彼らはギリシャ人なのですが、
古いギリシャの精神を受け継ぐ人々だったのかもしれません。
スーリ人というとギリシャ人ではないように思えてしまう人もいるようですが、
日本だと三河人か難波人の感覚です。
1803年アリ・パシャの率いるトルコ軍との合戦で、スーリ族は敗退し、
60人のスーリの女たちはザロンゴ岩山の絶壁に追い詰められてしまいました。
生きて辱めを受けるよりもここに自決すべきということになり、
最後に民族舞踊をみんなで踊り、そして絶壁から身投げ自殺をしたのです。
赤子のいる女性は赤子を抱きしめ、子供のいる女性は子供の手を握って、
岩の谷底へ落ちていきました。1803年12月16日のことでした。
ここにそのスーリの女性たちのために作られた古い歌があります。
Χορός του Ζαλόγγου (ザロンゴのダンス)
Έχε γεια καημένε κόσμε,
έχε γεια γλυκιά ζωή
Και ’συ δύστυχη πατρίδα
έχε γεια παντοτινή.
Έχετε γεια βρυσούλες
λόγγοι, βουνά, ραχούλες
Έχετε γεια βρυσούλες
και σεις Σουλιωτοπούλες
Στη στεριά δε ζει το ψάρι
ούτ’ ανθός στην αμμουδιά
Κι οι Σουλιώτισσες δεν ζούνε
δίχως την ελευθεριά.
Έχετε γεια βρυσούλες
...
Οι Σουλιώτισσες δε μάθαν
για να ζούνε μοναχά
Ξέρουνε και να πεθαίνουν
να μη στέργουν στη σκλαβιά.
Έχετε γεια βρυσούλες
さらば悲しき世界
さらば愛しき暮らし
そしてわが無念のふるさと
永遠の別れ
さらば泉、谷、山、丘、
さらば泉、そしてあなたたち、スーリの女たちよ
魚は陸で生きられず、
花は砂では咲かず、
そしてスーリの女たち
自由がなければ生きらず。
さらば泉
スーリの女たち
生き残る道を知らずとも
奴隷にならぬがために
死への道を選ぶ
さらば泉
今はザロンゴのダンスの記念碑は修理中なので、きれいな写真が撮れません。
それでWikipediaにザロンゴのダンスの写真があったので参照ください。
↓
Statue of dance of Zalongo
この歌に音楽がつくと、1行が2度繰り返しになっていたりします。
なので上記した歌の言葉は同じなのですが、行の繰り返し、
あるいは抜けたりしています。
ユーチューブでザロンゴのダンスを探していたらアメリカのコーラスグループや
アメリカ各地の高校の合唱クラブが歌っているのをたくさん発見しました。
エヘ ヤー カイメネ コスメ~ エヘ ヤー カイメネ コスメ~
エヘ ヤー グリカ ゾイ イイイエエエ エヘ ヤー グリカ ゾイ~~グリカ ゾイ
エヘテ ヤ~ ブリスレス ロギ ブナ ラフーレス
アリ・パシャはイオアニナのお城も建設した歴史に残る人物ですが、
この後にトルコのスルタン(皇帝)の言うことも聞かなくなり、手に負えなくなっていきます。
何しろ自分の息子の寵愛の女性を奪い、言うことを聞かないとその召使の女性ともども
イオアニナ城の真下に見える湖へ投げ込んだりしました。
また後宮に500人の女性がいて、中には拉致してきた女性もいました。
この頃の女性は外を歩けなくなりました。
こういうことはトルコの中央には伝わっています。
アリ・パシャ性格が激しく、諌めるトルコのスルタンの使者たちを次々に殺し、
その首を届けました。
部下たちの中にもアリ・パシャの奇行に困った人たちも多かったと思います。
ちなみに、このアリ・パシャ、トルコ人でもないという地元の噂があります。
ギリシャ人でもなさそうですが、、、。
アリ・パシャの寵愛の妃で名前の残るっているのはバシリキというギリシャ人です。
封建制度というのは、領主がその地を平和にし、年貢というか税金を穏やかに
納めさせるシステムなので、アリ・パシャはトルコのスルタンの頭痛の種だったかもしれません。
部下たちが戦々恐々として、領民は安心して暮らしていけないと、領民は脱走します。
そして豊かな土地も荒廃し、国家経営と税金収集ができなくなります。
1822年2月22日アリ・パシャはイオアニナ湖に浮かぶ小島の離宮で
トルコの刺客に暗殺されてしまいます。
アリ・パシャはトルコから独立してイピロス国でも作ろうとしたという人もいます。
しかし罪もない女性たち、息子の妻と16人も召使を湖に沈めたら、
部下たちも嫌気がさしてしまうでしょう。その召使いというのは女官のようなもので、
部下たちの娘だったり、妻だったりしたのかもしれません。
さて、わが一族の故郷アルタには美しいアフラトス川が流れ、
そこに美しい橋が架かっています。アルタ橋と呼ばれています。
その川を挟んで、今から100年前は北側トルコ、南側はギリシャになっていました。
橋のところに番屋があって、、石造りの立派な建物ですが、、
そこで通行人は検査を受けていたそうです。いわゆるパスポートコントロールで、
通行手形のない人は通れませんでした。
いつかその場所も記事にしようと思っています。
お手間をかけて申し訳ありませんが
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